日本には昔から、数々の芸術家や彫刻職人が活躍してきましたが、中には正体不明のアーティストも多く存在しました。
その一例として、江戸時代に現れた伝説の職人「左甚五郎」の名前が挙げられます。
左甚五郎には300年の時を生きたとされる伝承や、彼の作品にまつわる伝説などが数多く語り継がれています。
彼の彫刻作品は今も日本中の観光名所に置かれており、もしかすると皆様も一度は観たことがあるかもしれません。
今回はそんな左甚五郎の伝説と、関東地方に点在する彼の彫刻作品について解説したいと思います。
伝説の職人「左甚五郎」とは?
冒頭でもお伝えした通り、左甚五郎は江戸時代に存在していたといわれている彫刻職人です。
彼の作品は今も日本中に存在しており、関東の秩父神社や日光東照宮、島根の出雲大社など、様々な場所に設置されています。
しかし、左甚五郎の生涯に関する記録は少なく、主に講談などで彼の伝説を交えながら語り継がれてきたともいわれています。
現代でいうところの、バンクシー的存在だったといえるでしょう。
左甚五郎の300年生きた伝説
そしてこの左甚五郎ですが、一説では300年の時を生きたとも語られています。
というのも、彼の作品は安土桃山時代(1568〜1600)から江戸時代(1603〜1868)の後期まで制作されていたといわれているからです。
しかし、当然ながら一人の人間が数百年生きるなど、現代でも不可能です。
この背景としては、日本各地の腕の立つ職人達が自らの代名詞として「左甚五郎」と名乗っていたのではないかといわれています。
つまり、「我こそは最強の彫刻家なり!」というような職人が、最高に名誉ある称号として「左甚五郎」の名前を使っていたのではないか?という説です。
そう考えると、関東地方以外の地域にも彼の作品が点在している理由に納得できますね。
左甚五郎のPoint
- 江戸時代の伝説的職人
- 300年生きた伝説
- 講談で語り継がれている武勇伝
- 日本全国に散らばる彼の作品
全国に点在する左甚五郎の作品
左甚五郎作とされる彫刻作品は、関東地方を中心に全国に点在しています。
関東地方でいうと、下記のような観光スポットで彼の作品を直に観ることができます。
- 日光東照宮(眠り猫)
- 秩父神社(つなぎの龍、子育ての虎)
- 東京・上野東照宮(昇り龍、降り龍)
左甚五郎は当時江戸で活躍していたといわれているので、これらの作品は実際に彼自身で造った可能性が高いのです。
そこて今回は、これらの彫刻作品にフォーカスしてご紹介したいと思います。
眠り猫 日光東照宮
左甚五郎作の彫刻で恐らく最も有名である「眠り猫」
天下の大将軍・徳川家康を祀っている日光東照宮に設置されており、猫が安らかに眠る様子を描いています。
これは戦国の世が終わり、平和な時代が到来したことを示しているといわれています。
しかし、この彫刻をよく観察してみると、下記のような特徴に気が付きます。
- わずかに開いているかのような目
(一般的な神社の猫の彫刻は基本的に目を開けている) - 今にも飛びつきそうなフォーム
- etc…
一説では、これらは「いつでも攻撃できる」という政権のメッセージが含まれているともいわれています。
この微細な形を表現した左甚五郎は、やはり相当ハイレベルな技術を持っていたと考えられますね。
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眠り猫のPoint
- 争いの時代の終わりを象徴する作品
- 名前に反したように見える身構え
- 政治的メッセージ
昇り龍・降り龍 上野東照宮
東京の中心地に鎮座する「上野東照宮」
こちらでは、「昇り龍」と「降り龍」と呼ばれる彫刻が設置されています。
扉の龍サイドに置かれた2頭の龍ですが、それぞれ真逆のポーズで描かれています。
・昇り龍の場合
上を昇るように描かれているが、頭は下を向いている
・降り龍の場合
体は上に登り、顔も上を向いている
なぜ「昇り龍」が名前に反して下を向き、「降り龍」が上を向いているのかというと、以下の理由が挙げられます。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
出典:上野東照宮公式ホームページ
眠り猫もそうでしたが、左甚五郎は人間の思想などを生き物を通して表現していると考えられますね。
昇り龍の伝説
上野東照宮に語り継がれている伝説で、一つ面白い話があります。
その昔、この彫刻の龍は夜になると神社の外へ抜け出し、付近の「毎夜不忍池」と呼ばれる場所へ水を飲みに行っていたと伝えられています。
後ほどご紹介しますが、左甚五郎の作品はこのような不思議な話との結びつきが強く、後世に伝承として語り継がれているケースも珍しくないのです。
昇り龍・降り龍のPoint
- 下を向く昇り龍と、上を向く降り龍
- 日本の美学的な思想を描いた作品
- 彫刻にまつわる奇妙な伝説
子育ての虎
埼玉県・秩父神社に飾られている「子育ての虎」
こちらは親子の虎が戯れる姿を描いており、家族の大切さなどが伝わるような作風となっています。
母虎のヒゲは3Dのように飛び出ている形をしており、左甚五郎の彫刻作品の中では珍しい造りになっている印象てす。
しかし、よく観てみると母親は虎ではなく豹として描かれています。
「虎の群れを描く場合は、一匹だけ豹を入れなければならない」
こちらはかつて江戸時代に存在した「狩野派」と呼ばれる芸術派閥が設けたルールらしく、子育ての虎もそれに沿う形で、一匹だけ豹が描かれているのです。
なぜ左甚五郎は虎の彫刻を造ったのか?
秩父神社は1569年の火災により一度は焼失しましたが、後に徳川家康協力の下、現在の形へと再建されたといわれています。
その徳川家康のシンボルマークは「虎」として知られており、秩父神社でも虎の彫刻は数多く見受けられます。
徳川家康と虎の繋がり
- 寅年
- 寅の日
- 虎の刻生まれ
etc…
ちなみに、「東照宮」と名前のつく神社は基本的に徳川家康を祀っており、先程ご紹介した「上野東照宮」も徳川系列の地として知られています。
この様に、左甚五郎の作品は「徳川家康ゆかりの地」などに設置されているケースが多い印象です。
これは左甚五郎の腕前が、徳川政権、もしくはそれ系列の職人から高く評価されていた証なのかもしれませんね。
子育ての虎のPoint
- 親子の絆を描いた作品
- より立体的に見える彫刻
- 当時の成約により、虎の中に豹が描かれている
- 徳川家康へのリスペクト
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つなぎの龍
同じく秩父神社には、「つなぎの龍」と呼ばれる彫刻が設置されています。
壁に大きく彫られた龍が、鎖によって繋ぎ止められている様子が描かれています。
しかし、かつては鎖で縛られていることはなかったそうで、下記のような事件をきっかけに鎖が巻かれることになったといわれています。
かつて秩父神社に飾られていた青龍は、午前0時に境内を抜け出し、近くの「天ヶ池」という場所で暴れていたといわれています。
その際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができたそうです。
悪さをする龍とは、左甚五郎が造ったの「つなぎの龍」なのではないか?
著書・秩父の伝説(2007)によると、このような疑いが農民達の間で広まり、お寺の住職と相談した結果、この彫刻を鎖でつなぎ止めたといわれています。
その後、悪龍が現れることは無くなったそうです。
上野東照宮の昇り龍と同様に、左甚五郎の作品は「夜な夜な抜け出す」といった伝説があるようですね。
※ちなみにこちらは今現在、秩父神社での修繕工事が実施されているため、数年間は観ることができません。
つなぎの龍のPoint
- 鎖につがれた青龍
- 夜になると悪行を働いていた
- 龍を鎖で繋ぎ止め、封じ込めた
蛙股の瑞獣・流水紋
関東地方ではありませんが、島根県の出雲大社にも左甚五郎の彫刻作品が飾られています。
こちらは本殿前の八足門と呼ばれる場所に置かれているもので、波のようにウェーブした模様を描いた流水紋と、龍のような獣の彫刻が特徴的です。
関東圏と同様に、中国地方の由緒ある神社でも左甚五郎の痕跡を辿ることができますね。
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左甚五郎と作品・まとめ
以上が伝説の彫刻職人・左甚五郎と彼の作品についてのご紹介でした。
彼の作品は関東以外でも観ることができますので、観光の際は是非ともチェックしてみてください!
また、秩父エリアには「龍の骨」や「僧侶が残した暗号石」などの面白い伝承・スポットなどが数多く存在しますので、興味のある方はそちらもご覧下さい。