日本には解明されていない歴史や伝承が数多く存在しますが、古代出雲王国もその一つです。
出雲といえば、島根県の顔役でもある「出雲大社」が有名ですが、その創建も未だ謎に包まれており、古事記では神話時代に造られたとされています。
そんな謎の多い出雲ですが、かつてこの地には王国、もしくは武装勢力が存在しており、とある理由により滅亡したという説があるのです。
今回はそんな「古代出雲王国」について、歴史や考古学的発見を交えながらわかりやすくご紹介していきたいと思います。
そもそも出雲ってどんな場所?
出雲は島根県にある人気の観光地であり、東京から出ている寝台列車「サンライズ出雲」なども有名です。
しかし、人気観光名所である同時に、出雲はたくさんの神話や伝説が残る地としても知られています。
出雲地域の主な特徴としては、以下の例が挙げられます。
- 人気観光名所の出雲大社
- 奥出雲などの秘境
- 国譲り神話の舞台となった稲佐の浜
- 銅剣や銅鐸などの出土品(日本最大)
- 古代出雲王国の存在
後ほど詳しくご紹介しますが、古事記の3分の1は出雲に関する内容で書かれているといわれており、日本の神話か色濃く残る地ともいわれてるのです。
神話から出雲大社誕生までの歴史
ここからは出雲地域の誕生、出雲大社の創建までを詳しく解説していきたいと思います。
出雲は古事記や日本書紀に登場する神様「オオクニヌシ」という人物によって、繁栄・開拓されたと言われています。
いわゆる「国造り」というものですが、後に彼の祖先である天照大神がオオクニヌシの元へ使者を送り、下記のような要求をします。
出雲の地を天照大神に譲ってほしい
最終的にオオクニヌシは下記のような条件を提示し、これを承諾します。
・オオクニヌシの息子達と交渉すること
・国を天照大神に明け渡す代わりに、自らを祭る宮殿を造ること
この交渉に前向きなオオクニヌシでしたが、彼の息子「タケミナカタ」はこれに反対し、天照大神が送った使者「タケミカヅチ」と争うことになりました。
天照大神の使者 VS オオクニヌシの息子
国譲りに対して前向きなオオクニヌシでしたが、彼の息子「タケミナカタ」はこれを認めませんでした。
そしてタケミナカタは後に、天照大神が送り込んだ使者「タケミカヅチ」と戦うことになりましたが、結果は惨敗。
タケミナカタは逃げ去り、逃亡先の諏訪の地(長野県)から出ないことを約束し、国譲りに同意します。
ちなみに、この剣の神とも称されたタケミカヅチは現在の茨城県「鹿島神宮」にて祭られています。
関連記事:鹿島神宮の神様「タケミカヅチ」とは?鹿島神宮と○○を繋ぐと現れるレイラインと神話を解説
国譲りから出雲大社建造へ
こうしてオオクニヌシと彼の息子達の同意を得たことによって、地上は天照大神が所有することになりました。
これは、いわゆる「国譲り」という神話として語り継がれています。
そしてこの時、オオクニヌシを祭るために出来上がった宮殿こそが、現在の「出雲大社」であるといわれています。
ちなみに、国譲り神話の舞台ともなった「稲佐の浜」は、今も出雲大社近くに存在しています。
こちらは現在、出雲市の中でも屈指の人気を誇る観光スポットとなっていますので、興味のある方は下記の解説記事もお読みください。
関連記事:【稲佐の浜】出雲神話の舞台となった観光スポットとは?見どころと壮大な歴史をご紹介!
Point
- オオクニヌシにより、地上で国造りが行われる
- 天照大神が使者「タケミカヅチ」を派遣
- 国譲りを交渉
- オオクニヌシの息子とタケミカヅチが争う
- タケミカヅチが勝利し、国譲り成功
- オオクニヌシのお願いにより、出雲大社が建てられる
神話の争いは本当に起きていた?古代出雲王国の存在
先程の物語はあくまでも神話上の話として語り継がれおり、出雲の地での人々の生活や実態は歴史的には不明瞭なものでした。
しかし近年に入り、下記のような仮説が立てられるようになりました。
- 出雲の地にはかつて武装勢力が存在していた
- もしくは王国が栄えていた
- 王国間の争いを神話として形を変え、語り継いだのではないか
というのも、近年に入り出雲大社の周辺地域では、武器や銅鐸などの出土品が次々と発見されたため、これらの仮説が現実味を帯びてきたのです。
そしてこの中で最も有力な説こそが「古代出雲王国」とよばれるものです。
出土品から見えてきた、出雲に栄えた武装勢力
出雲大社から18キロ離れた荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)では、1984年から85年にかけて発掘調査が行われ、たくさんの出土品が発見されました。
その内訳は下記の通りです。
- 銅剣358本(日本最多)
- 銅鐸6本
- 銅矛16本
さらに、この荒神谷遺跡から数キロ離れた加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)でも、日本最多となる銅鐸39本が発見されています。
これらの出土品は弥生時代のものであると推測されると同時に、下記のような定説も議論されるようになりました。
出雲地域にはかつて栄えていた王国、もしくは何かしらの武装勢力が存在したのではないか?
また、歴史学者の瀧音能之氏は、出土品について自身の著書の中で下記のように述べられています。
銅剣の成分分析を行った結果、中国華北や挑戦版との鉛が含まれていた事が判明。弥生時代の出雲は、海外とも交流する大きな勢力であったと考えられている
引用・出雲大社の謎
これらの説に対して、日本の文化人類学者・関裕二氏(2013)も自身の著書の中で、出雲の国譲りによる争いは現実の歴史で、5-6世紀に実際に起きていた可能性があると言及されています。
つまり、これら発見により「国譲り神話」の争いは実際に起きていた、もしくは何らかの争いを「神話」として形を変え語り継いだとの見解が出てきたのです。
Point
- 日本最多の銅剣や出土品の発掘(国宝指定)
- 出雲には武装勢力、もしくは王国が存在した可能性がある
- 海外とも交流を持っていた説
なぜ古代出雲王国は滅びたのか?
荒神谷遺跡から青銅器が出土する以前にも、出雲の地には大和政権に対抗した武装勢力があったのではないか?という説はありましたが、考古学的には否定されていました。
しかし、日本最大級の出土品によってその説が濃厚になってきた今日ですが、依然として謎は残ります。
もし出雲王国が存在したと仮定した場合、出雲の神話は残っているのにも関わらず、王国もしくは武装勢力はなぜ歴史から姿を消してしまったのでしょうか?
これは考古学的にもまだまだ不明瞭な点が多く、実態を掴めていない状態ですが、いくつかの説が存在します。
大和政権に滅ぼされた説
古代出雲王国が歴史から姿を消した理由の1つに、「大和政権」対「古代出雲王国」との間で争いがあったのではないか?とする説があります。
先程ご紹介した出土品により、下記のような定説も浮かび上がりました。
弥生時代もしくは古墳時代にかけて、出雲には他の国に対抗できるような武装勢力が存在したのではないか?
しかし、出雲で見つかった出土品は、全体的に弥生時代の物と判断されているため、その時代以降の出雲については実態が掴めていない状態です。
つまり、突然姿を消したことになります。
そして古代出雲王国の足取りが掴めなくなってきたこの時代に誕生した勢力こそ「大和政権」だといわれているのです。
日本の文化人類学者・関裕二氏は著書・出雲大社の暗号(2013)の中で、下記のように語られています。
十ニ代垂仁天皇の時代にヤマトタケルが出雲に行き、イズモタケルを討ち取ったとの説話があるが、現実の話とは受け取られていなかった
引用:出雲大社の暗号
ヤマトタケルとイズモタケルは、両方とも古事記に登場する人物ですが、もしかすると彼らの争いは国を巻き込み、実際に起きていた可能性があるということになりますね。
Point
- 古代出雲王国の衰退と共に現れた大和政権
- 大和政権と古代出雲王国が争った可能性がある
- 弥生時代には古代出雲王国は存在していた
大和政権と空白の4世紀
大和政権の誕生についても不明な点は多いですが、政権が登場したと考えられている266年〜413年は少し特集な年代となっています。
この時代は、国内のみならず中国の文献にさえも日本に関する記録が残っていないため、「空白の4世紀」といわれているのです。
その空白の4世紀に成立した大和政権と、それとほぼ同時期に姿を消したといわれている古代出雲の勢力。
一説では、この空白の4世紀に日本の覇権をかけた大きな戦いがあったのかもしれない、と考えられているのです。
Point
- 国内外の文献に残っていない空白の4世紀
- その期間に姿を消した可能性がある古代出雲王国
神話の内容は大和政権と古代出雲王国を描いている説
神話として語り継がれてきた「国譲り」の物語ですが、古代出雲の地で発見された出土品より、もう1つ下記のような仮説がたてられました。
オオクニヌシの「国譲り神話」は、実際に現実の世界で起きていたのではないか?
これはいわゆる、オオクニヌシが出雲の地を天照大神に譲ったと語られている古事記の内容は、「大和政権」VS「古代出雲王国」の構図を神話として描写したのではないか?という考えです。
これについては不明瞭な点が多いのですが、一説では下記のようなメッセージを描くために古事記に載せたのではないかとも言われています。
- 天照大神の系譜が地上を治めた描写を示すため
- その子孫である天皇、大和政権の権威を誇示するため
現に天皇直轄の神社には「神宮」という名前が使われますが、神話時代から存在する「出雲大社」には「神宮」とは名付けられていないといった謎も存在します。
Point
- 古事記の神話は大和政権vs出雲王国を描写した説
- かつての天照大神の系譜、大和政権による権力を示すため説
なぜ古代出雲王国VS大和政権はの話は古事記に載ってないのか?
では実際に大和政権と古代出雲王国が戦ったとして、なぜその描写が古事記には描かれていないのでしょうか?
古事記に登場する物語の三分の一は、「出雲」の地が舞台なのですが、出雲大社の創建や王国誕生については、未だに謎のままです。
一説では、下記のような要因が挙げられるのではないかとも言われています。
古代出雲王国は当時の絶対的権力者である「大和政権」をも揺るがす巨大な組織だったため、歴史に残せなかった
当時の日本書紀や古事記は、日本の古代史の基盤ともいえる存在です。
そんな教科書にも載る歴史書に、当時の絶対的権力をゆるがす記述が書いてあったら、権力者達は面白く思いませんよね。
古事記が書かれたのは712年。ネットやテレビもない時代ですので、時の権力者たちが自由に歴史を書き換える事も可能です。
そのため、このように当時は「歴史の書き換え」があったのではなか?との考えも存在するそうです。
Point
- 古事記の三分の一を占める出雲に武装勢力の記述が載っていない
- 絶対的権力(大和政権)をゆるがすほど巨大な勢力だった説
- 歴史の書き換えがあった説
古代出雲王国・まとめ
以上が古代出雲王国についてのご紹介でした。
島根県・出雲市は考古学的も非常に興味深い土地となっていますね。
ちなみに、出雲にはまだまだ面白い神話や不思議スポットなども点在していますので、下記の記事もぜひチェックしてみてください。