平将門の怨念は今も存在する…東京の最恐スポット「将門塚」を調査してきた。歴史も併せてご紹介

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「平将門の乱」で知られている平安時代の武将「平将門(たいらのまさかど)」

平安時代に民衆のための政治を行い、人望も厚かった将門ですが、一族間の争いや朝廷(政府)と敵対した末に斬首刑にされてしまいました。

そんな平将門の首が祭られて入る「首塚」をご存知でしょうか?

撤去作業が行われる度に不可解な事故が多発したため、将門の怨念が住み着く場所ともいわれています。

今回はそんな平将門の首塚こと「将門塚」を実際に調査してきましたので、彼の歴史と共にご紹介したいと思います。

平将門とは?将門塚ができるまでの歴史をご紹介

画像:平将門

首塚(将門塚)について解説する前に、まずは平将門のバックグラウンドについても触れておきましょう。

平将門は903年(平安時代)に、下総の国(しもうさのくに)で広大な土地と勢力を誇る父・平良将の下に誕生しました。

また、平将門の祖父は桓武天皇(かんむてんのう)の血筋といわれています。

平将門VS平一族(連合)との争い

そんな高貴な家系に生まれた将門ですが、父・平良将の亡き後、下総の土地を奪い取ろうとした叔父・平国香(たいらのくにか)と争うことになります。

935年に勃発した戦いの大まかな内容は、下記のとおりです。

ザックリとした平一族の争い

①平将門と平国香による「内輪もめ」が勃発

②平国香と源護+彼の息子たちによる連合結成

③しかし、将門の力は非常に強く連合を撃退
(平国家と源護の息子3人が討ち取られる)

④勢いに乗って祖父・平良正(たいらのよしまさ)をも撃破

⑤ここで将門の伯父にあたる平良兼(たいらのよしかね)が乱入

⑥平良兼+平貞盛(討ち取られた国家の息子)が連合結成

⑦平将門に戦を仕掛けるも返り討ちに合い、逃亡

⑧再度、将門と連合が衝突

⑨一度は敗れるも、最終的に将門が勝利

⑩ 良兼は亡くなり、平貞盛は地元へ逃走

⑪平の一族の実権は将門が握る

この935年に起きた平一族の内輪もめでしたが、最終的に将門が連勝し、一族の実権を握る形になりました。

平一族の争いに朝廷は関与しなかった

先程の⑦の時点で、源護が朝廷に助けを求めますが、下記の理由により却下されています。

平将門平将門

これは一族間での争い。朝廷に逆らう気はない

と将門が主張し、こちらの言い分が通りました。

Point

  • 平将門は天皇の血を引く武士だった
  • 一族の間で争いが起きた
  • 将門の力は非常に強大だった
  • 朝廷は親族間での争いとみなし、関与しなかった

【平将門の乱】自ら新皇を名乗り、朝廷と敵対関係に

将門は後に神のお告げにより、新しい天皇になること宣言をし、自ら「新皇」と名乗ります。

そして、国司(国の行政官)に支配されない、武士や農民のための国造りを始めました。

平将門平将門

「新皇」となり、国民のための新たな国造りを目指す

しかしこれは、いわゆる国のルールや既存システムの崩壊を招くものでもありました。

その後も将門は領土を拡大していき、さらには地方政治を行うために朝廷から派遣された国司から「印綬」と呼ばれる証明書的なものを奪いとっていくのでした。

いわゆる935年から始まった「平将門の乱」の幕開けでした。

これは政府や天皇に対する裏切り行為とみなされ、平将門は朝廷と完全に敵対してしまったのです。

朝廷がついにブチギレ!平将門討伐が開始される

そして、以前の戦で将門に敗れた「平貞盛」(たいらのさだもり)と「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)が連合を結成し、将門討伐を開始します。

彼らの連合は4500の兵力に対して、将門の兵力は1000人足らずだったこともあり、敗北して逃走します。

その後、将門は約400の兵を率いて約1000人の連合軍と戦いますが、頭を弓で射抜かれ死亡し、長かった争いに決着が付きました。

Point

  • 自らを新たな天皇「新皇」と名乗る
  • 国司(国の行政官)から印綬を奪い取っていく
  • 朝廷と完全に敵対関係になる
  • 平貞盛+藤原秀郷の連合に敗北(940年)

怨念により建てられた「平将門の首塚」

画像:東京・平将門の首塚

平将門の敗北後、彼の首から上は京都にて晒し首にされしまいます。

しかし伝承によると、下記のような超常現象が起きたとも伝えられています。

  • 将門は晒し首になった3日目に目を開いた
  • 白い光を放ちながら飛び上がった
  • 首から上は東へと飛び立ち、現在の東京・丸の内に落下
  • その時、大地に響き渡る大きな音を立てたいた
  • 周辺は夜のように真っ暗な暗闇に包まれた

その現象に怯えた人々は塚を立て、平将門を祀ったといわれています。

これがいわゆる平将門の首塚・「将門塚」がてきた理由でした。

ちなみに、首から下の胴体は茨城県に運ばれたため、平将門の顔は自分の体をめがけて東へ飛んだといわれています。

そして現在の茨城県・延命院にて、「平将門の胴塚」が今も建られいるのです。

Point

  • 京都から東京へ飛んできた将門の顔
  • 現在の東京丸の内・大手町に落下
  • 天変地異が起きたため、首塚を建てる
  • 胴体は茨城の胴塚にて祭られている

平将門の怨念?首塚で多発した不可解な事故

将門塚は何度も土地開発のために撤去される予定が立てられていましたが、その度に奇妙な事故が起きてしまいました。

日経ビジネスによると、第二次世界大戦前に首塚を撤去しようとしたところ、スタッフや作業員を含む14人か亡くなられたといわれています。

また、戦後GHGにより首塚の撤去作業が行われましたが、その最中にブルドーザーが横転し、運転手の方が亡くなるという悲惨な事故も起きてしましました。

その後、あのGHQでさえも首塚の撤去を断念したのです。

その他にも首塚の撤去は幾度となく提案されてきましたが、その度に奇妙な事故が起きたといいます。

最終的には「大蔵省再建事業」の際に崩されてしまったそうですが、1970年に現在の形へと整備されました。

事故の原因は将門の怨念か

何度も不可解な事故が起きてきた平将門の首塚こと「将門塚」ですが、その怨念は非常に強力なものといわれています。

この理由としては、民衆のために動いた平将門が、朝廷の裏切り者・反逆者として晒し首にされたため、その強い怨念が今なお残っているとの見解があります。

第28代陰陽師・阿倍成道氏も自身の著書の中で、下記のようなことを言及されています。

将門の怨念は単なる伝説ではなく事実なのです。そしてそれは今も続いています。

引用:日本の結界(2018)

このような背景もあってか、将門塚は高層ビルの並ぶ東京の大手町に今もひっそりと立っているのです。

関連記事:あの陰陽師も認めた関東1のパワースポット「三峯神社」を徹底解説

Point

  • 度重なる不可解な事故
  • 今なお残る将門の怨念
  • 陰陽師でさえも驚愕した怨念の強さ

実際に将門塚を調査してきた

画像:将門塚境内

先程からお伝えしている通り、将門塚は東京の大手町に今も存在しています。

この首塚自体は非常に小さいですが、下記のような特徴が印象的です。

  • 東京都の指定文化財
  • ガラスケースに入った石碑
  • 豪華な装飾のお墓
  • 結晶石やカエルの置物

ちなみに、日本の神社などでは縁起の良いカエルの置物がよく観られますが、この将門塚では無数のカエルのオブジェクトや小さな水晶が設置されています。

画像:カエルのオブジェクト

こちらは将門の首が故郷の関東へと飛んできた伝説から、「無事に帰る」という意味で出張や転勤前の参拝者が置かれていったそうです。

また、お墓の裏にはガラスケースに入った石碑が設置されており、こちらもかなり独特な造りとなっていることが伺えます。

画像:平将門の首塚

このような要因もあり、都会の中心にあるのにも関わらず、その雰囲気はかなり厳格で異様なものとなっています。

将門の霊は神田明神に祭られている

平将門の霊は、1309年に神田明神に祭られ、現在もそこの御祭神として崇められています。

画像:神田明神

ちなみに、かつて将門塚の東隣にビルが建てられた時、各フロアの従業員たちが病にかかるといった現象が起きたらしく、その際にこちらの神職が塚にてお祓いを行ったといわれています。

神田明神は首塚から徒歩20〜30分ほどですので、あわせて参拝することをおすすめします。

また、毎年9月には「将門塚例祭」が首塚周辺で行われますので、興味のある方はそちらもチェックしてみて下さい。

平将門へのアクセス方法

将門塚へのアクセスは、下記のようにかなりシンプルです。

新宿駅→東京メトロ丸ノ内線(池袋行き乗車)
大手町にて下車(約20分 運賃199円)

大手町駅から出たあとは、マップに沿って進めば数分で到着します。

平将門の首塚・まとめ

以上が平将門に関する大まかな歴史と伝説、彼の首塚についての解説でした。

東京にはまだまだレイライン上に位置する不思議スポットが点在していますので、興味のある方は下記の記事もぜひお読み下さい。

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